「イミテーション・ゲーム」(THE IMITATION GAME)

-異端者の哀しみ-
2014年 英/米 モルテン・ティルドゥム監督



ドイツ軍の史上最高の暗号機“エニグマ”については、以前、エニグマの解読に挑む英国の暗号解読チームの奮闘を描いたロバート・ハリスの「暗号機エニグマへの挑戦」を映画化した「エニグマ」(2001年)という作品を見て知っていた。ダグレイ・スコット扮する心身症気味の天才数学者は、解読チームの中心メンバーであるということ、天才数学者であること、社会性に乏しい性格など、アラン・チューリングを下敷きにしたキャラだとは思うが、女に振り回されるという設定など、フィクションなので実際のチューリング本人とは異なる。
今回、バッチ君がエニグマを解読した天才数学者を演じる、と聞いた時に、あのダグレイ・スコットが演じた役のベースになった学者を演じるのだな、と思った。本人もかなり入れ込んで演じた役のようなので、仕上がりが楽しみだった。
出来ればTOHOシネマズ日本橋で見たかったのだが、タイムテーブルが都合に合わず、みゆき座で鑑賞。

バッチ君は相変わらず、「アロガントな天才」というキャラにピッタリとハマっている。不思議なのは、バッチ君本人は至って常識的で人当たりのいい、穏やかでナイスな人間だと思われるのに、性格的に問題がある人物を演じると違和感なくハマってしまうという事である。演じるということは自分の想像力や記憶などを総動員して役や役の状況を表現する事だと思うが、いかに俳優といえども自分の中に全く無いものは、逆さに振っても出ては来るまい。だから、バッチ君本人にも幾分かそういう傾向が潜んでいなくはないのだろうと推察するのだが、それにしても、毎度、不思議な気分にさせられる。



バッチ君演じる天才数学者のアラン・チューリングは、早熟の天才で、その天才性においては疑いの余地はないが、少年時代から変わり者としてイジメを受け、長じては社会性に乏しい学者になった、という設定で、冒頭からいきなり、暗号解読チームに関わるデニストン少佐(チャールズ・ダンス)の反感を買ってしまう。
チャールズ・ダンスは一癖ある人物を演じる事の多い俳優だが、今回は保守的な価値観にコリコリに凝り固まった軍人を演じていた。



パブリックスクールに通う少年時代のチューリングを演じた少年は、小柄で脆弱な雰囲気で、いかにも陰湿なイジメを受けそうなタイプだったが、実際のチューリングは大柄でがっしりとした体格の人だったらしい。だから、バッチ君でも細身過ぎるというか、本作では実像よりも繊細なイメージを狙ったのかな、という気がした。チューリングの役は、80年代に舞台とBBCでデレク・ジャコビによって演じられたようだが、身長はともかくとして、風貌的には、デレク・ジャコビの方がバッチ君よりもチューリングに近いのではないか、という感じがする。

自信満々で、尊大で、共同作業のキライなチューリングは、解読チームに参加した当初から、仲間との間に溝を作る。他の仲間と同じ作業をせず、今日のコンピューターの前身となるマシンを一人で黙々と作り始める。あの、独特の外観の大きなマシンである。

あぁ、このマシンは「エニグマ」でも見た事があったなぁ。暗号解読チームの拠点だったブレッチリー・パークに、きちんと作動する完璧なレプリカがあるとのことなので、美術監督はそれを見に行って忠実に再現したらしい。映画「エニグマ」もそうだったのだろう。



「イミテーション・ゲーム」では、時代に翻弄された天才の人生に主題が置かれているので、ドイツ軍の暗号機エニグマや、その解読機についての説明が些か足りなかった感じがした。そこらへんをもうちょっと丁寧に描かないと、何がどうしてどう大変なのか分かりにくいんじゃなかろうかという気がした。ただ、タイムリミットまでにキーをみつけないと、というだけでは漠然としすぎている。2001年の映画「エニグマ」では、暗号はキーを使って、どのように打たれるのか、という事がよく分かるように作られていたし、チームが懸命に解読用のキーを策定する様子もしっかりと描かれていた。主人公が女に振り回されてウダウダする部分を除いては、割によく出来ていたと思う。逆に言うと、「エニグマ」を見ていたので、「イミテーション・ゲーム」は、エニグマと解読機に関する部分は描写が浅い、というか薄いなぁ、という気がしてしまったのかもしれない。

いきなりチーム内で孤立したチューリングが、クロスワードに天才的な能力を発揮する一般女性ジョーン(キーラ・ナイトリー)を迎え入れた事で、ギクシャクしてどうにもならなくなっていた人間関係が徐々に円滑に周り出す様子は、まぁ、そうでしょうねぇ、という感じだった。解読チームの同僚でチェスのチャンピオンのハンサムマンを演じているのは、マシュー・グード。ピッタリである。バッチ君より更に10cmぐらい背が高い感じだ。



電信柱のように伸びたマシューの横でずんぐりとしている目のクルクルした俳優はどこかで見たぞ、と思ったら、「ダウントン・アビー」で三女の婿ブランソンを演じているアレン・リーチだった。しかし丸っこい。背が高くないのに肉付きが良くなりすぎて、ちょっとマンガチックな程である。折角可愛い顔をしてるんだから、もっと痩せなさい。
このアレン・リーチ演じるジョン・ケアンクロスも、人なつこい、温厚そうな外見の裏に秘密を隠している男なのだが、それは見てのお楽しみだ。



また、マーク・ストロングも暗号解読プロジェクトに携わるMI6のスチュアート・ミンギスとして登場する。

映画は、1930年代末、チューリングが暗号解読チームに加わったところから、戦中、解読にいそしむメインの部分に、適宜、戦後の1950年代初頭に彼を見舞った災難の部分が挿し込まれるという形で展開する。バッチ君の見た目が殆ど変わらないため、戦中なのか、戦後なのか、年代表示が出てきても、ちょっと混乱してしまう。その合間に、パブリックスクール時代の親友(そして永遠の恋人)だったクリストファーとの思い出が描かれる。教師などには到底、解読できない暗号で授業中にメッセージをかわし合う二人の少年…。

映画では、チューリングが自分の作ったマシンに「クリストファー」という名をつけていたが、実際にはこのマシンは「bombe」という名だった。あまりロマンチックではない。が、このマシンの名前を「クリストファー」にしたところに、この映画のタイトルが「イミテーション・ゲーム」であることの意味が籠められているのだと思う。
「イミテーション・ゲーム」というのは、チューリングが発表した論文のタイトルで、内容は人間と機械を区別するためにチューリングが発明した手法が記されたものであるという。イミテーションというのは、機械が人間をなぞること。それはチューリングにとってのゲームだった、という事なのだが、この映画では、人間をなぞるマシンに「クリストファー」という名をつけた事で、青春時代に奥深いところで理解しあえた殆ど唯一の存在だったクリストファーを突如喪った痛みを生涯抱えていたチューリングが、考えるマシンを作る事で、いくらかでもその喪失を補おうとしたのだ、という事を表現したのでもあろうか。孤独で同僚となじめなかったチューリングは、自分が作ったマシンに親友の名をつけ、人知れずコミュニケーションすることで、喪われた親友との親密な時間を取り戻そうとしたのかもしれない。機械だけが友達。孤独の極みである。



パブリックスクールの休暇が終り、クリストファーが戻ってくるのを飛び立つように待ちわびるチューリング。…だが、休暇明けのパブリック・スクールに、待てど暮らせど最愛の友は帰って来ない。このシーンは哀切極まる。この映画で描かれた少年時代のチューリングの寄る辺なさを思うと、ひとしお、その喪失の深さがしのばれるのである。

のちのコンピューターの元となるマシンを開発し、難攻不落のドイツ軍の暗号を解読し、戦争の終結を2年は早めたであろうと言われる功績を残したにも関わらず、暗号解読という極秘任務に携わっていたせいで、彼やチームの存在は長らく極秘とされ、世間には知られていなかった。戦後の1952年、同性愛者だったチューリングは、道で拾った少年と関係を持つが、その少年がチューリングの家に手引きして強盗を引き込んだ事から、警察に同性愛傾向を知られる事となってしまう。
戦時中にあれだけの功績があった人物なら政府が守ってしかるべきところだが、結局、暗号解読の活動そのものが秘密にされ続けたために、チューリングは同性愛者として告発され、有罪になってしまう。投獄を免れるためには、同性愛傾向から「ノーマル」な異性愛に転向するためにホルモン治療を受ける事を強制される。チューリングはこれを受け入れるが、ホルモン治療により、あれほど明晰だった頭脳の働きも鈍るようになる…。


おそらくはクリストファー亡きあと、最高の理解者だったジョーンだが…

映画では、ブレッチリー時代に婚約した事のあるジョーン(キーラ・ナイトリー)が、同性愛で告発された失意のチューリングを訪れ、気晴らしにクロスワードを勧めるが、おそらくはホルモン治療の弊害で、チューリングがひと枡も埋める事ができない様子が描かれている。
このラストシーン間近のバッチ君の演技は圧巻で、彼がチューリングの生涯に感銘を受け、自分でも制御できないほど感情移入して泣いてしまった、と語っていたシーンが展開する。痛ましいまでの、異端者の孤独と哀しみである。

それにしても同性愛を禁じた風俗壊乱罪という英国の法律は、アメリカの禁酒法と並ぶ悪法ではないかと思うが、実にひどい法律である。そういう傾向を発生、助長させるパブリック・スクールは昔から一向に変わる事なく存続させながら、同性愛だけは厳罰を持って禁じるというのは、いかにどうしても無理があると思う。やたらに激しく禁じるので、余計に地下で燃え上がってしまう事にもなったのだと思うけれども、同性愛も多少の差こそあれ、人間が本質的に持っている傾向のひとつに違いないのだから、自然の声を無理に封じても、いい事はなにもないのだ。長らく続いたこの風俗壊乱罪によって、オスカー・ワイルドの例を引くまでもなく、古来から、どれほどの才能が押しつぶされてしまったか計り知れないほどだが、アラン・チューリングもその犠牲者の列に名を連ねる羽目になってしまったのである。

どれだけの輝かしい才能を持ってしても、偏見や汚名から身を守る術はなかったのだ。

そして、それほどの才能、頭脳をもった功績のある人間でも、同性愛であるというだけで人格や業績が否定され、しゃにむに矯正されたり、投獄されたりしてしまうというのは、実に野蛮な話である。文明社会とは思われない。20世紀に入っても半ば過ぎまでそんな魔女狩り的な法律が平然とまかり通ってきたというのは、実に恐ろしい事だと思う。同性婚が英国を含む世界のあちこちで認められるようになってきた昨今では、まさに隔世の観があるが、間違いなく50年ほど前までは、そんな法律が厳然と機能して、殺人や窃盗を犯したわけでもない人を、ただ性的傾向のみで断罪してきたのである。

チューリングがアメリカ人だったら、あんなに早く生涯を終える事はなかっただろうし、40代〜50代の学者として脂の乗り切った時期に、もっと凄い理論や発明を幾つも発表してのけたかもしれないのに、と思うと、他人事ながら、何とも名状しがたい気分になる。戦後、アメリカに移住しちゃえばよかったのに、と思うけれども、どんな天才でも自分の運命は見通せないのだ。



2009年に英国首相が公式に戦後の彼の扱いについてお詫びの声明を出した事で、埋もれた天才アラン・チューリングにスポットがあたり、名誉回復が大々的になされたのはまだしもだったが、死後50年以上もたって謝ってもらったって浮かばれまい。生きているうちに、当時の政府が彼を守るべきだったのに、と思ってしまう。彼が守られなかったのは、強固に根を張った風俗壊乱罪の厳格さとともに、人々に天才だが変人だと思われており、コミュニケーション下手で理解者が少なかったという性格的な問題もあるのかもしれないと思うと、余計にチューリングが気の毒になるし、こちらまで救われない気分になる。

数学の天才というのは、他のジャンルの天才に比べて奇人変人が殊更に多い気がする、と前にも書いた気がするけれども、これも長年、ワタシが気になっているテーマである。数学だけではないのかもしれないが、数学の天才には、そういう傾向が顕著な気がするのだ。



そして、天才における交換の法則…。
以前、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を見た時に、天才の人生の辛さについてしみじみと思いを致したが、今回もまた、偉大な才能を付与された人間が、いかに生きづらい人生を送らねばならないかについて考えさせられた。
ささやかな才能は人生を時に照らしてくれるかもしれないが、並外れた才能は、その才能の持ち主を滅ぼしかねない何ものかを同時にもたらすのかもしれない。諸刃の刃(やいば)である。

天才ならずとも、凡庸な人の人生も山あり谷ありで、そう楽な事ばかりはないわけではあるが、色々な伝記に触れると、天才には巨大な才能に比例する巨大な試練や欠落が与えられるものらしいという事をなんとなく感じる。
並外れた才能には、並外れた代償が要求されてしまうのだ。
天才の人生は辛いのである。

コメント

  • 2015/05/03 (Sun) 02:23

    kikiさん、こんにちは。
    帰国してはや3週間、冬物なんていらんだろうと別送したのに、帰ってきた時の東京はまさかの寒さ、ロシアに戻ってきたかと思いました(笑)でもようやく初夏っぽい陽気になってきましたね。暑さに慣れていけるか心配ですけども。

    生活も落ち着いてきたところで、「Sherlock」の2人が観たくてアンドリュー・スコットが出ている「パレードへようこそ」とこのバッチ君の映画を観てきました。まさに同性愛がテーマの前者が希望を感じさせて終わるのに対し、バッチ君の方は、しばらく辛くて重苦しい気分が抜けませんでした。少し時代が違っていたら、生きる国が違ってたら。特に終盤のバッチ君の演技が印象的なだけにチューリングがかわいそうで、ほんと死後何十年も経ってから名誉回復されたって、って気持ちになっちゃいますね。
    天才数学者の孤独、変人ぶり、というと、以前NHKのドキュメンタリーで興味を持って本を読んだグリゴリー・ペレルマンというロシア人数学者を思い出しました。100年解かれなかった「ポアンカレ予想」という難問の証明に成功しながら、フィールズ賞も懸賞金も拒否し、以後世間と関係を絶って今どうしているのかわからない天才数学者。「リーマン予想」とか数学の難問てちんぷんかんぷんですけども、それにまつわる数学者たちの物語って興味を引かれますね。他の分野の天才と呼ばれる人たちとは、孤独の深さというか質というか、特別な何かが違うという感じがします。

  • 2015/05/03 (Sun) 22:01

    annaさん こんばんは。
    帰国されてから、ひと月弱経ったんですね。
    そういえば4月の初めは、急に寒くなって戸惑いましたね。でも桜の咲く頃って急に寒くなったり雨が降ったり風が吹いたりするんですよね。どういうわけか。4月というのに雪が降った年もあった気がします。が、5月が近づくと晩春らしい陽気になりますね。今年もけっこう温かくなってきました。夏はけっこう暑いかもしれません。高温多湿の夏をスタミナをつけて乗り切ってください。

    「イミテーション・ゲーム」は、アラン・チューリングがどうにも気の毒で、見終わった後に、何とも言えない気分になりますよね。
    「ポアンカレ予想」の証明をした数学者のドキュメンタリーは興味深いですね。その番組は残念ながら見逃してしまったんですが、機会があれば見てみたいです。グリゴリー・ペレルマンという人は、とても複雑な人のようですね。
    様々な難題についての証明をした数学者たちの実績の方は、なにがどうしてどうなってそれが証明できたのか、よく分からないのが実情ですが、その人生には本当に興味を惹かれますね。天才的な数学者は、本当に孤独の深さと質が違う、特別な何かが違う、という感じがします。何故、数学者にはそういう人が多いのか、そういう気がするだけかもしれないですが、不思議ですね。

  • 2015/05/29 (Fri) 11:17

    kikiさん

    やっと近場のシネコンで上映されることになって飛んでいきました。カンバーバッチの映画初鑑賞です。
    キーラとのラスト近くのシーン、涙がでました。悲劇の天才を演じるというより体現したカンバーバッチ、ほんとに見事でした。
    それにしても若き日に愛した人とは死別するし、刑務所入りを避けて研究を続けるために薬物療法を選んだけれど、そのために研究もままならなくなり、ついに自死してしまった、アランチューリング、彼は二度も殺されてしまった...
    なぜだと憤慨せざるを得ませんでした。あれだけ国のために貢献したのに、生きているうちにはなんの栄誉も得られなかったなんて。栄誉が彼の生きる目標ではなかったにせよ。彼は初恋の人が若くして亡くなったあと、彼の分まで良く生きると誓いをたてて努力し、多くの優れた論文で評価されたのに、戦争のためにその頭脳を国に捧げたがために研究は一時中断、やっと研究を再開できると思ったら今度は同性愛者であるがために遂に殺されてしまう。(自殺だったということだが殺されたのと同じです)
    でもこの映画でカンバーバッチという役者によってよみがえり、私たちは知ることとなった。このことをもって瞑すべし...なのかなあ。
    とにかく心に残る映画でした。

  • 2015/05/30 (Sat) 10:15

    ふうさん ご覧になったんですね。
    バッチ君、かなり感情移入して演じてましたよね。確か、この映画でチューリングを演じた事から、同性愛者を擁護する団体にコミットしたようなニュースを読んだ気がします。
    チューリング、本当に気の毒とも何ともいいようがないですよね。絶句しちゃう感じで。見終わったあとに何とも救いがたい気分になってしまう映画なのだけど、強力にメッセージを伝えることには成功したと思います。チューリングについて考えると、名状しがたい気持ちですが…。
    同性愛で告発されたあと、死なずに何とか踏ん張って、アメリカに亡命すれば良かったのに、と思ってしまいますね。そんな前向きな事を考える気にもなれないほど絶望してしまったんでしょうけれど。こういう人が居た事を知る事ができて良かったとは思います。二度とこんな暗黒の時代が来ない事を祈りますね。出来れば彼が存命のうちに名誉回復できれば良かったのにと思わないわけにはいかないですけれども…。

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