「ウォルト・ディズニーの約束」(SAVING MR. BANKS)

-ほろにがい追憶への香華-
2014年 米 ジョン・リー・ハンコック監督



いかにもな邦題もイヤだったし、メリー・ポピンズにも原作者にもウォルト・ディズニーにも興味がなかったので、観ることもなかろうと思っていた映画だったが、少しまえに、たまたまWOWOWから流れてきたので何とはなしに横目で見始めてみると、想像していたノリの映画とは違ったので、いつしか最後まで観てしまった。

ワタシはあの有名なディズニーの実写版の「メリー・ポピンズ」を最後まで観た事がない。何度もTV放映されているので、時折、じゃ今度こそはちゃんと観てみようかと思いつつも、映画が始まり、歌ったり踊ったりが始まるとシュルシュルと興が薄れ、出て来る子供たちも年寄り臭い顔をしていてあまり可愛くないので、あぁもういいや、と、かなり早い段階でどうでもよくなってしまうのだ。どうしても最後まで観られない。半分までも観られない。

けれども、その「メリー・ポピンズ」制作の裏話である「ウォルト・ディズニーの約束」は、始まって割にすぐから、さっぱり本作に興味のなかったワタシを引き込んだ。
ガンコで偏屈なやかまし屋のオバはんである、原作者のP.L.トラヴァースをエマ・トンプソンが演じていて、当たり前に巧く、ハマり役だった事もあるけれども、本当の要因は、この原作者の少女時代の回想が、かなり早い段階で登場した事にある。
彼女の回想の中に登場する若い父を演じるのは、コリン・ファレル。最近、よく出てくる。なんだかんだでコンスタントに売れている俳優である。ロマンチックなファンタジーという部類になるのか、ちょっと不思議な映画「ニューヨーク冬物語」とかにも、妙に非現実的な役で出ていた。

常に眉間と額に深い皺を寄せ、ヒモみたいな赤い口の口角を下げて、ぶつぶつと文句ばかり言っている原作者のおばさんP.L.トラヴァースも、回想の中では夢多い巻き毛の少女だ。彼女は常に目を輝かせて父の傍らに居る。父はそんな娘をプリンセスと呼んで愛情を注ぐ…。



コリン・ファレル演じるトラヴァース・ゴフは、現実社会では生きていけない男だ。心がおとぎの国の住人なせいか、仕事はどうしても巧くいかない。長続きしない。思いつきで仕事をサボっては家に戻って娘達と遊んでしまったりする。仕事や職場は、彼にとってはあまりに異質な世界なのだ。到底馴染めない。あまつさえこの父は、馴染めない現実社会と折り合いをつけるためか、それともただ逃げるためか、酒に溺れてアル中になってしまう始末である。

実際にどういう人だったのかは知らないが、本作では、P.L.トラヴァースの父親について、「生活無能力に近い夢追い人」という色づけで描いていた。コリン・ファレルはいい具合に役にハマっていたと思う。家族を愛しているが、生活戦線で踏ん張ることは、彼にとっては難行苦行なのである。この世は幻に過ぎないのだ、とスキットルでウイスキーを飲みながら父は娘に言う。そう思えば暗く悲惨な現実に打ちひしがれずに済む、と…。



そんな彼は、常に現実に負けっぱなしの男である。不向きな仕事、不本意な日常から束の間でも逃れるため、安ウイスキーを煽る。そして酔った挙げ句に人前で失敗し、その場を凍りつかせる。3人も娘がいる一家の長なのに、夢を観ることしか出来ない無能の人である。長女のギンティ(少女時代のP.L.トラヴァース)だけは、何があろうと、この無能の人を熱愛しているが、3人も子供がいるのに大人になりきれない困った男を夫にしたギンティの母(ルース・ウィルソン)は、不安と悩みの尽きぬ日々でくたびれ果てている。乳飲み子もいるのに、まことに気の毒である。



しかし、大人になって、それも、かなりいい年のオバさんになっても、娘が思い出すのは母の苦悩や苦労よりも、現実社会には不適合な夢見る人であった父親の事のみなのだ。父が仕事をクビになるたび、引っ越しをしなければならない不安定な生活をしていたのに、娘の記憶の中では、父親はいつまでも若く、楽しく、懐かしく、恋しく、そして痺れるように切なく哀しい存在であり続けている。その父の名をペンネームに織り込んだ娘、P.L.トラヴァースは、さして本も売れず、なかなか新作も書かないため、経済状態が逼迫し、ロンドンの家を売るかどうかの瀬戸際に立たされてしまい、エージェントに促されてイヤイヤながら遂に20年前から断り続けている「メリー・ポピンズ」の映画化について検討しなければならない羽目に陥る。20年前から根気よく映画化権をオファーし続けているのは他でもないウォルト・ディズニーである。


ハイホー!

ウォルト・ディズニーについては「闇の王子ディズニー」という上下巻の評伝を随分前に読んだ事がある。異様に外面のいい人間には、人には知られたくない裏の顔があるのはよくある事なので、「闇の王子ディズニー」に書かれていた事ぐらいではさっぱり驚きもしなかったし、さもありなんと思ったけれども、まぁ、なかなかに複雑な陰影を持った人物ではあると思う。大成功を収め、全てを手中にしたのに晩年はアル中だった。「闇の王子ディズニー」でワタシが最も印象深かった部分は、功なり名遂げたウォルトがディズニーランドを建設し、オープンから半年の間、夜も昼もディズニーランドで過ごし、メインストリートのお伽の国の建物の二階に、自分だけの隠れ家を造り、そこで一人憩い、自分の夢の王国のメインストリートを人々が行き交う様子を涙しながら眺めていたという下りだ。「それは「昔むかしの楽園」の東、「ネヴァー・ネヴァー・ランド」のすぐ近くにあった、彼の心の中の永遠の王国だった」(「闇の王子ディズニー」下巻より)

ウォルト・ディズニーはハリウッドのビジネスマンであり、映画製作者としては妥協を廃し、徹底的に自分が納得するものを作り上げる専制君主的なスタジオのオーナーであったが、心の奥底には、厳しく、金銭に細かい父親に使役され、夢のゆりかごでまどろんでいる事を許されなかった永遠の子供がうずくまっていた。大人になっても子供時代の夢の中に生きているという部分では、P.L.トラヴァースの父親と同じタイプの人間といえるかもしれないが、ディズニーには夢を現実的な形に置き換え、それを商売にできる才覚があった。

一方、P.L.トラヴァースの父、トラヴァース・ゴフは、そういう現実的なパワーを一切持たなかったのだろう。ただ、自分とは合わない価値観の中で摩耗していく事の耐え難さに酒に逃れているうちに、若い身空でこの世を去ることになってしまう。
大好きな父は、しかし、大人として責任を引き受けられない困った男でもあった。困った男ではあったが、娘にとっては永遠の恋人でもあったのだろう。父と娘は二人しか住めない夢の世界に生きていた。額に深い皺を刻むひからびた中年女になっても、娘は折節、父を想い、父との思い出の中に生きている。何十年が経とうとも、彼女の心は父と過ごした少女時代の周辺をさすらい続けている。懐かしさや恋しさだけではなく、鋭く深い心の痛みを伴わずには思い出す事のできない父との日々を…。額に深い皺を刻む年齢になっても、彼女の中には父と空想の世界に遊んでいた巻き毛の少女がいまだに住んでいるのだ。

互いに心の奥底に永遠の子供を住まわせている点で、ウォルト・ディズニーとP.L.トラヴァースは似た者同士といえるのだろう。



しかし、アゴアシ付きの招待で、ロスのディズニースタジオを訪れたP.L.トラヴァースは、イライラと高圧的に、キャラクターデザインや、セットデザインなど、なんでもかんでも手当たり次第に文句をつけ、ウォルトやスタッフを右往左往させる。そうやってキリキリしながらも、打ち合わせ中にも、ホテルとの往復の車の中や、ホテルの部屋の中でも、絶え間なしに父親を思い出している。常に眉間に皺を寄せ、悲しい目で遠くをみつめながら…。いかにもハリウッドな雰囲気のビバリーヒルズ・ホテルのスイートに入った彼女は、ウェルカムフルーツの中に洋梨を見つけると、窓から中庭のプールに全てどぼん、どぼんと投げ込んでしまう。洋梨にはいまだに彼女の心を縛る悲しい思い出がまつわっていた…。



というわけで、絶え間ない原作者のイチャモンに晒されながら、いかに製作陣が根気よく頑張ったか、また、あれこれのナンバーが誕生するシーンや、当初のストーリーからラストに改変が加わるあたりなど、映画「メリー・ポピンズ」誕生の裏側もそれなりに楽しめる。肝心の「メリー・ポピンズ」をちゃんと観ていないワタシには、裏側も表側もないようなものだけれども、それでも聞き覚えのある曲は「チム・チム・チェリー」だけではなく、「2ペンスを鳩に」なども映画はロクに観ていなくてもどこかで耳にしており、なんとなく好きな曲だな、と改めて思ったりした。



音楽担当のシャーマン兄弟を演じるのは、ジェイソン・シュワルツマンとB・J・ノヴァク。きちんとした七三分けのジェイソン・シュワルツマンは、おとなしい雰囲気の好青年をさらりと演じていて、いかにも60年代の人のように見えた。ピアノを弾きながら「メリー・ポピンズ」中の有名なナンバーを歌うシーンがあり、けして歌は巧くないのだが、ピアノを弾きつつアイデアを練り、それを反映させて曲を作り上げていく感じが自然だった。彼が夜中のスタジオで一人ピアノを弾きながら「2ペンスを鳩に」を作っているシーンが良かった。

トム・ハンクスのウォルト・ディズニーは、いわゆるウォルトおじさん的なディズニー像を一歩も出てはいない。つまり、「闇の王子」な部分は、ディズニー制作の映画なので当然ながら一切描かれていないわけである。けれども、特に顔が似ているわけでもなんでもないのに、ちゃんとディズニーらしい雰囲気を出していたのはさすがにハンクスで、世間のイメージ通りのウォルトおじさん的なウォルト・ディズニーを演じつつ、偽善的ではなくハートウォーミングな感じを巧く漂わせていた。唯一、生身のウォルトらしさをちょこっと出したシーンとしては、タバコを吸っている姿は誰にも見せない、タバコを吸っている時は部屋に誰も入れない、というセリフだろうか。しかし、本作でのディズニー役の見せ場は勿論、交渉が決裂したあと、ロンドンに帰ったP.L.トラヴァースを追って、ディズニーが自らロンドンに赴き、彼女を説得するシーンである。まず自分の少年時代と父親の思い出を話し、そしてトラヴァースに水を向ける。「メリー・ポピンズ」は、あなたと父上の事を書いた本でしょう?と言い、「悲しみはもう十分でしょう。これからは過去に支配されない人生を歩まなくては」と語りかける。それは、ウォルトの中の永遠の子供が、P.L.トラヴァースの中の永遠の少女に語りかける言葉である。過去のほろ苦い記憶にずっと捕われてきた者だけが、その痛みの強さ、悲しみの深さを推し量る事ができるのだ…。
そしてウォルトは言う。「想像力で悲しみを癒すのだ」と。



原作者P.L.トラヴァース役に、当初はメリル・ストリープが候補に上がっていたが、メリルが断ったのでエマ・トンプソンが演じることになったそうだけれども、メリルも勿論それなりに達者に演じたに違いないと思うが、これはエマ・トンプソンが演じてくれて良かった、とワタシは思う。ワタシがこの映画を観る気もなかったのに観てしまったのは、エマ・トンプソン演じるP.L.トラヴァースのキャラの表れ方がとても良かったからだ。やかまし屋の、干物みたいにひからびたおばさんの中に、いつまでも深く父を愛し、彼の思い出の中に生き、彼を喪ったショックをいまだに癒せないでいる傷ついた少女がいる。どんなに頑固で捻くれたおばさんになっても、彼女の本質はずっと傷ついた少女のままで、心の内側の奥深いところで膝を抱えてうずくまっているのである。そういう感じが、とてもよく出ていた。遠い昔に心が傷ついたままになってしまっている、という雰囲気が、折々の表情や声やまなざしからにじみ出ていた。その傷ついた少女が、せめて物語の中でだけでも、不遇に死んだ父親を復権させたいという思いで綴ったのが、「メリー・ポピンズ」だったというわけである。ゆえにこの映画の原題は「SAVING MR. BANKS」(バンクス氏を救え)というのだ、と。
東風に乗って現れるメリー・ポピンズは、子供たちではなく、父親(バンクス氏=P.L.トラヴァースの父)を救いにやって来たのだ、と。それは彼女の魂の奥底からの祈りだった。だからP.L.トラヴァースは、何がどうでも「メリー・ポピンズ」をアニメにはしたくなかったし、出来る限り、金のために映画化権を売るようなマネもしたくなかったのだ…。



気難し屋のトラヴァース女史を乗せて、ホテルとスタジオの間を送迎する車の運転手として、ポール・ジアマッティが出ている。何を言われても、つんけんされても動じず、いつの間にかコチコチの意固地なP.L.トラヴァースの胸襟を開いてしまう茫洋とした運転手を、脱力系の演技でほわーっと演じていた。ほわーっとしているようでも、ちゃんと肝心な時にトラヴァース女史を迎えにきて「友達が私を必要としていると感じたもんですから」なんてにっこりする。コワモテのトラヴァース女史もついつい、駆け寄ってハグしてしまうニクい奴である。



映画「メリー・ポピンズ」はディズニー・スタジオ始まって以来の歴史的な大ヒットを記録し、幾つかの部門でアカデミー賞も獲った。ジュリー・アンドリュースは、「マイ・フェア・レディ」の映画版には出られなかったが、その「マイ・フェア・レディ」では主演女優賞にノミネートもされなかったオードリー・ヘプバーンに対し、「メリー・ポピンズ」でアカデミー主演女優賞を勝ち取る。オードリーは、歌は吹き替えにされてしまうし、その事で演技の評価も少し割りを食ったような感じになり、彼女にとって「マイ・フェア・レディ」は何やら気の毒で不本意な作品になったといえるかもしれない。でも、歌声はともかく、ジュリー・アンドリュースで映画の「マイ・フェア・レディ」を観たいかというと、それも微妙なところである。オードリーの「マイ・フェア・レディ」っぷりは、やはり綺羅綺羅しいものがあったものね…。





…と、つい話が脱線して「マイ・フェア・レディ」に行ってしまったが、いかに大ヒットしようとも、「メリー・ポピンズ」の続編の映画化はなく、実際のP.L.トラヴァースは、映画化権を売った事を、やはり後悔していたらしいのだが、この映画の中のトラヴァース女史は完成試写で大泣きに泣きながら、やっと、現実に負けて不遇に死んだ父親を安らかに旅立たせる事ができたのかもしれない。

それにしても、幾つになっても人の心の奥底には子供だった頃の自分が住んでいて、子供の頃に味わった楽しい事、嬉しい事、悲しい事、切ない事は、生涯にわたってその人の人生をよくも悪くも捉え続けるのだな、と今更ながらに思う。いい事も悪い事も、それを前に進むエネルギーに換えられる人もいれば、なかなか前に進めず、立ち止まったままの人もいるだろう。しかし、程度の差こそあれ、誰の中にも、子供だった自分がずっと生き続けているのは違いないだろう。そして、そんな子供時代の自分を内側に抱えた人が密かに求めるのは、それぞれの『昔むかしの楽園」の東、「ネヴァー・ネヴァー・ランド」のすぐ近く』の心の中の永遠の王国、であるのかもしれない。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する