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「17歳」(JEUNE & JOLIE)

-17歳は真面目じゃない-
2013年 仏 フランソワ・オゾン監督



17歳というのは、14歳と並んで特別な年齢かもしれない。それは何故か16歳や18歳ではなく、17歳なのである。
13歳や15歳ではなく14歳が特別なように、17歳も特別なのだ。理屈ではなく。
原題とは異なるけれども「17歳」というのは邦題としてドンピシャリだし、映画そのものも、いかにもフランソワ・オゾンらしい作品という感じで、それなりに面白かった。

17歳のヒロインを演じるのはマリーヌ・ヴァクト。モデル出身で、オゾンの新たなミューズらしい。単にキレイというだけなら、ヒロイン、イザベル(マリーヌ・ヴァクト)の親友を演じていたブロンドの少女の方がキレイかなと思ったけれども、マリーヌ・ヴァクトはそれなりに演技も出来るし、痩せぎすの体にけだるそうな眼差しが雰囲気のある女優だなと思った。




17歳になったばかりのイザベルは、家族とバカンスに出た海辺で同年代のドイツ人青年と出会い、期待に満ちて初体験するが、それは彼女にとって興味索然な経験に終わった。こんなものであるはずがない…。秋になり、好奇心にはやる彼女は、パリに戻るとネットを通じて交渉し、ホテルで客に会うようになる。様々な客にそれなりの値段で体を売りながら、何食わぬ顔で家族とアパルトマンで暮らし、名門高校に通うという二重生活を送るイザベルだったが、ある日、馴染み客であるジョルジュがホテルで腹上死してしまう…。

というわけで、祖母の名を源氏名に、母のブラウスを勝手に持ち出して、放課後売春を続けていたイザベルの二重生活は、顧客の死により家族の知るところとなり、一応の終止符が打たれる。

ショックを受けた母親から、「どうしてなの!?」と問いつめられても、イザベルは答えない。金のためではないと言い、確かに金だけが目的ではないのだが、金を貰わなければ、勿論そういう行為もしないわけである。初老のジョルジュは上顧客で、レア(イザベルの源氏名)に対してロマンティックな感慨を抱き、彼女をとても紳士的に扱うが、いかに若くて綺麗で高値で売り時のレアであっても、客によっては侮蔑的な態度や言葉を投げつけられたり、その値打ちはない、と提示した金額を値切られたりもする。レアとしての彼女の値段は300〜500ユーロ(約4万〜7万)。確かになかなかのお値段ではある。

客達の中で、互いに家族と一緒に劇場にいる時に出くわしてしまったりもしたジョルジュは、常連でもあり、レアにとって、どこか特別な顧客になっていく。偶然にせよ、レアではなくイザベルとしての顔を見た事のある客は、おそらくジョルジュだけであろうし、イザベルは娘と観劇に来たジョルジュと出くわすのである。偶然の邂逅…。イザベルはじっとジョルジュを見つめる。ジョルジュは娘の手前、何食わぬ顔でその視線を受け流しつつも、すかさず指名のメールを送る。



60代後半でもあろうか、壮年ではあるが、このジョルジュを演じるヨハン・レイゼンがなかなか素敵なロマンスグレイ、というか、ロマンスシルバーっぷりで魅力がある。喩えれば、ダニエル・クレイグの20年後、という感じだろうか。もう、おじさんよりはおじいさんの領域に入ってきてはいるものの、男としての魅力が漂っている。おじいさんだけど男っぽい、というのは、なかなか素敵な事である。

ジョルジュは仕事人間で、長らく家庭を顧みず、常に妻以外の女も身辺に置いてきた男である。男である自分に誇りを感じ、楽しんで生きてきたが、そのリミットは迫っている。時間は確実にその取り分を取っていくのだ。彼は避けようのない老境のとば口に立って、男としての自分にしがみついている男である。だから、心臓にトラブルを抱えているのにバイアグラを飲んで、自分の娘よりも10歳近く若い娼婦を買わないわけにはいかないのだ。ジョルジュはまさに命がけで女を買っていたのである。最後まで男でいるために…。
ジョルジュは物憂げな眼差しの若い娼婦レアに、自らの過ぎ去った青春を重ねてでもいたのだろうか。レアを買っている時の彼は、常にいささか感傷的である。



そんなジョルジュが行為の最中に発作を起こし、あっという間に死んでしまい、イザベルは動転して、死んだ彼をそのままにホテルから逃げ帰ってしまう。警察は、事件性はないと察しをつけつつも、女子高生売春の背後に組織などは無かったのかどうかを調べる。

イザベルの母親は、ごく普通に育ててきたつもりなのにどうしてこんな事になったのか、とショックを受ける。それはどんな母親でもショックを受けると思う。どう対処するべきかも判断が付かないだろう。理解できずに、頭の中が「?」マークで一杯になってしまうに違いない。もし自分にイザベルぐらいの娘がいて、知らないうちに売春に励んでいた事を知ったらどう対処するだろうと考えてみたが、有効そうな対処法は全く思い浮かばなかった。こういう場合に有効な対処法など存在しないのかもしれない。

母親に難詰されたイザベルは、家族ぐるみの付き合いをしている友達の夫と恋愛関係にあるらしい母親の秘密に気付いていることを仄めかす。この母にしてこの子ありか。思わぬ娘の逆襲を受け、母親は倉皇として退散する。
生臭い年頃の子供を持った親は色々と大変そうである。自分自身も試されるのだ。


いつもは、かなり小憎たらしい娘であるが、さすがに事件の直後は子供らしい態度になる

カウンセリングを受けつつ冬を越し、やがてクラスメートの男子と付き合うようになり、親も安心するが、そうこうするうちに彼女の心は次第にまた、うつろに彷徨い始める。春が来たある日、封印していた娼婦時代の携帯のSIMを差し込み、メールをチェックしたイザベルは、ある人物に会いに、ジョルジュが亡くなって以来足が遠のいていたホテルに赴く…。

というわけで、どこで出て来るのかと思っていたシャーロット・ランプリングが大詰めで静かに、しかし、圧倒的な存在感をもって登場する。この映画でのランプリングは本当にカッコいい。カッコ良く年を取るというのは、それなりの歳月を重ねて、それなりの哲学を持って生きてこないと出来ない事なのだなと、こういう女優を見るとつくづく思う。



彼女が登場すると、急に作品が奥行きを増し、陰影を増し、文学的なニュアンスが漂い始める。ワタシは、この作品のランプリングを見ていて、村上春樹の「1Q84」に出て来る柳屋敷の老婦人をふっと思い浮かべた。
このラスト間近のシーンでのランプリングのセリフに、イザベルが何故売春に走ったのか、が仄めかされていたように思う。

人生は長いようで、実は短い。とても短い。ましてや、旬の時期はほんの一瞬で過ぎ去ってしまう。時は間断なく流れ、見る間にあらゆるものが流れ去って過去になっていく。瞬く間に流れ去る「美しい年」を、悔いなく楽しみ、求め尽くせ、というのが、この作品のテーマではなかろうか。多少、極端であっても、後悔なく若さの驕りと美しさの輝きを享受しきっておく、ということ…。理屈ではなく、イザベルはそれを本能で感じていたのではなかろうか。

もちろん、本作でイザベルが選んだ方法は、かなりの危険と隣り合わせであり、何が起きても文句は言えない。全ては自己責任であり、何事も引き受けなければならないし、どんな事でも起こりうるシチュエーションである。客が常にちゃんと金を払ってくれるまっとうな男ばかりとは限らない。ある日、どこかのホテルの部屋で、惨殺され、全裸で発見されても何の不思議もない。いつ、どんな病気をうつされるか分からないし、ヤクザに目をつけられて薬漬けにされ、上前をはねられて惨めな奴隷になり下がる可能性も高い。またジョルジュのように発作を起こして死ぬ客も出て来るかもしれない。…だがしかし、それでも彼女は…。



ラストシーンの表情に、イザベルの心に浮かんだことが見えた気がした。

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