SOMEWHERE

− あるべきところへ −
2010年 米 ソフィア・コッポラ監督



公開時に少し話題になっていたことは覚えているのだが、その後、映画チャンネルで放映された時に、主人公のジョニーがフラフラした生活を送っている冒頭の数分を見て気乗りがしなくなり、鑑賞を中止した。つまりワタシはエル・ファニングが登場する前にこの映画に見切りをつけてしまったのだった。今回、深夜に偶然始まったのを見て、あぁあれか…と思いつつ、前に鑑賞中止したところを乗り越えて見ていたら、エルが出てきた。…なるほど、そういう映画だったのか。
このほどは最後まで鑑賞し、何がしかの余韻が残った。



離婚して以来、ウエストハリウッドのホテル、シャトー・マーモントを根城にしている映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)。プライヴェートな時間は酒と女とパーティに明け暮れるジョニーだが、離婚した妻との間には、11歳になる愛娘クレオ(エル・ファニング)が居た…。

というわけで、冒頭、黒いフェラーリが周回道路をぐるぐると回った果てに車から小柄な男が降りてきてオープニングとなる。男は映画俳優のジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)だ。
彼は孤独を紛らわすため取り巻きとカラ騒ぎの日常を送り、ある夜、酔って階段を踏み外し、手首を骨折する。片腕にギプスをはめた彼が、部屋にブロンドの双子のポール・ダンサーを呼んで目の前で踊らせつつ寝てしまうシーンで、初回は鑑賞を中断したのだった。


今更ながら、フェラーリというのは理屈抜きにカッコいい車である

双子のポールダンサーは可愛いし、綺麗な体をしていて、それなりにセクシーなポールダンスを披露するのだが、このシーンはとても退屈で、しかも長い。ソフィア・コッポラはこの二人がイヤに気に入ったようで、少し後にもう一度登場するが、ニコニコしながらそれなりに踊っているのにおざなり感の漂うポールダンスのシーンが無駄に長いせいで、ここで離脱してしまう人も結構いるのではないかと思った。狙いとしてはジョニーの空虚なセレブ生活のウロを何がしか象徴させているのだろうとは思うけれども、(狙いは分かるが、やはり無駄に長い)ソフィア・コッポラ映画に特有の奇妙な冗長感は昨今、大分なくなったが、まだ少しだけ残っているようだ。しかし、ワタシ的にはかなり退屈だったポールダンスのシーンが終わると、真打ち、エル・ファニングが登場するのである。

冒頭からポールダンスまでいわく言いがたい停滞ムードが漂っていたこの映画に、エル・ファニングが登場すると、俄然、精気と光が与えられ、しかも日差しの強いカリフォルニアに一陣の涼しい風が吹き抜けていくような清しい気分になる。姉のダコタに比べると若干ファニーフェイス度が勝るエル・ファニングだが、キュートで涼しいその容姿と自然な演技は大いなる魅力で映画全体を支えている。



離婚後は元妻のもとで暮らす一人娘のクレオ。11歳という設定で、事実、エルも撮影時にはそんな年齢だったのだろうけれども、顔は幼いが長身のせいで13〜4歳ぐらいに見える。つまり、小学5年生じゃなく、中学2年生ぐらいに見えるのだ。
この、エルの外見が子供こどもしていないというところにミソがある。スティーヴン・ドーフ演じるダメ親父とガールフレンドのような可愛い娘という構図が、ビジュアル的には上手くハマり、しかも、実際は娘がまだ本当に子供な年齢であるために、危ういものを感じさせないのである。

主人公のジョニーは映画を撮り終えて、そのプロモーション活動に入っているという設定。たぶん、離婚して身一つで家を出たのであろう彼は、新しい所帯を構えるのも面倒なので、セレブ御用達の老舗ホテル、シャトー・マーモントで気楽な生活を送っているのである。

シャトー・マーモントでジョニーとエレベーターに乗り合わせるというシーンでベニチオ・デル・トロが本人としてカメオ出演している。また、新作撮影中にちょろっとラブアフェアのあった共演者役でミッシェル・モナハンが1シーン顔を出している。こんな風に記者会見の写真撮影ではいかにも仲よさそうに寄り添っていても、実は毒づきあったりしてるんだろうねぇ。さもありなん。また、写真撮影時にジョニーが低い台の上に乗っているのがさりげに笑えた。昨今、女優のヒールは猛烈に高い。よほど長身の俳優でないと女優の方がずっと背が高くなってしまうわけである。この小柄な俳優の乗る台を「セッシュウ」というらしい。言うまでもなくサイレント時代に早川雪舟が撮影時に使ったことから付いた名前である。



*****
実際にシャートー・マーモントでロケをしているので、ジョニーの暮らす部屋を筆頭に、ホテル内部も映画の中にあちこち登場するが、城のようなその外観は、敢えてであろうが映さない。ジョニーがその特徴的なバルコニーに出て外を眺めたり、庭のレストランで朝食を摂ったり、プールで憩ったり、ロビーで娘にピアノを弾いて聞かせたりするシーンが印象的に挿入されている。かつてデ・ニーロやジョニデなどが一時期住んでいたというこのホテルは、セレブがよくランチやディナーにやってくることでも知られている。2年ほど前に、海外セレブニュースをチェックしていたら、ご贔屓のジェイク・ジレンホールが謎のブルネット美人とシャトー・マーモントでディナーを楽しんでいた、という目撃情報が載っていた。ジェイクは最近、一般人の美女ともよく付き合っているようだ。彼はロス育ちで、父親が映画監督、母親が脚本家という家の子供である。シャトー・マーモントには子供の頃からよく出入りしていたのだろうと思われる。

…ちと脱線したが、
シャトー・マーモントは元はアパートだったらしいので、各部屋にはちゃんとしたキッチンが付いている。要するに、簡単なものなら自分で作ったりもできるわけで、長期滞在や、そこで生活するのに向いているホテルなのだろう。ロスに住んでいない俳優や女優が、撮影の間ここに滞在する、という使われ方もよくするらしい。



離婚した元妻から暫く留守にするから娘を預かって、と一方的に押し付けられて困惑するジョニーだが、娘との時間は理屈抜きに楽しい。二人でビデオゲームに興じてはしゃぎ、娘を連れて新作のキャンペーンにイタリアに行ったりもする。そして、マーモントの部屋のキッチンで娘が手際よく作ってくれる美味しい朝食。いつの間にか、ちゃんと朝食が作れるようになっている娘。子供はいつまでも子供のままではいない。



娘が3年前にフィギュアスケートを始めていたことも知らなかったジョニーは、練習に送り迎えに行って、妖精のように銀盤を滑る娘の姿に小さな感銘を受ける。
エルはスケートの特訓を受けて撮影に臨んだそうだが、元々バレエをやっているとかで、腕の動かし方やポーズなどはそれらしくサマになっていた。が、3年もフィギュアをやっているという設定にしては、ジャンプが全くジャンプしていないのはご愛嬌か。しかし、このフィギュアのシーンに、エルの起用が大成功だったことが集約されているように思う。水色のウェアも涼しい、瑞々しい妖精のような娘。



さて。エルについてばかり書いているが、ジョニーを演じるスティーヴン・ドーフもその少し微妙な感じがこの映画には合っていたと思う。彼を見ていて、ユアン・マクレガーともどことなく似ているな、という感じがした。この役はユアンが演じてもいい感じだったと思うし、ジョニーがスターである、という雰囲気がもう少し出たかもしれないが、スティーヴン・ドーフのあまりスター・オーラのない感じも、ソフィア・コッポラ映画らしくて悪くなかった。スティーヴン・ドーフといえば、「バック・ビート」ぐらいしか脳裏に浮かんでこないが、最近では悪役が多くなっていた気もする。そんな中で、そこそこロマンチックで人間性も表現できるという点で、これは彼にとっても嬉しい役だったのではないかと推察される。



映画スターとして成功し、酒と女の誘惑には弱いが、人柄は割に穏やかで傲慢なところもない感じのジョニーは憎めないキャラである。人当たりも良い。が、かなり適当な部分があり、過去に関係して一夜限りで終わってしまったのであろう相手から(そういうのが沢山いるのだろう)、しょっちゅうスマホに嫌味なメールが入る。ジョニーはいちいちそれらを読むが(読まなくていいのに)、相手にせずに流す。

スティーヴン・ドーフはシャイで少しくたびれた感じだが、笑うと口元が爽やかで目元に愛嬌が出る。小柄でキュートである。最初は地味でパっとしないな、と思って見ていたが、段々と映画が進むにつれて悪くないな、という印象になっていった。



なんとなく売れてしまい、なんとなくモテるので寄ってくる女を相手にしている感じのジョニーだが、心のそこで本当に求めているのは平凡な幸せである。しかし、結婚は破綻し、可愛い一人娘のクレオはそのはざまに落ちかけている。いつまでもフラフラしている場合なのか。俺が本当に求めていたものは何なんだ? と人生の途上で立ち止まり、やがて何処にか方角を定めて歩き出す。 これはそんな男の物語である。

この映画の良さは、シャトー・マーモントでのロケと、エル・ファニングと、地味にいい感じのスティーヴン・ドーフ、その父と娘のふれあいの時間、そして所々にちょこっと入ってくるオフビートな笑いである。

例えば、ジョニーが部屋にマッサージを呼ぶと、いつもの女性マッサージ師ではなく、見慣れない男性のマッサージ師が来る。ひとまずマッサージを頼むと、そのうち男性マッサージ師はポロシャツを脱ぎ、チノパンを脱ぐ。男がパンツを脱いだあたりでジョニーが跳ね起きる。客が裸な時は自分も裸になるのだとマッサージ師は妙な言い訳をし、ジョニーは困惑しつつも怒鳴ったり怒ったりせず、「わかったけど、今回はもういいから」と、やんわりマッサージを断る。ジョニーっていい人である。

または、クレオを連れて映画のプロモーションに行ったイタリアでTVに出演し、何かの賞をもらって礼を述べていると、突如、音楽と共に背後からリオのカーニバルに出てくるような女性ダンサー達が羽根飾りをつけてワラワラと登場し、陽気に激しく踊り始める。何も聞かされていないジョニーはうろたえてキョドり、客席で見ていたクレオは大笑いする。

1時間半ぐらいの短い映画だから良かったのだと思うけれども、ツッコミの足りない部分もあるし、ジョニーにはスターの業のようなものをあまり感じないので(中途半端にいい人なのでアクが足りない感じもする)、彼の孤独の掘り下げもやや中途半端な感じになってしまっている。彼に何か非があるとすれば、深く物事を考えずに流されて適当に生きてきてしまった、という事だけのように思われる。



しかし、そんな彼が娘と過ごす時間の貴重さに気づくのが遅すぎなくて良かったと思う。子供はあっという間に育ってしまうのだ。クレオが柔らかな感受性を持つ、瑞々しい少女の時間はもうそんなに長く残されてはいないのである。折角、人の子の親になったというのに、娘が育っていく過程を見逃す事は、貴重な人生の時間を無駄に消費してしまうことである。いくらお金があったとしても、幸せな子供時代をお金で買い戻すことはできないのだ。気づかぬうちに育ってしまった娘に、親の愛に包まれた少女時代を買い与えることはできないのである。ジョニーの元妻はいきなり暫く留守にすると言ってクレオをジョニーに預けっぱなしにしてしまうのだが、これは彼女の育児放棄なのか、それとも親の役割をきっちりとジョニーにも果たさせようとした結果なのかは定かでない。
しかし、思いがけず、いつもよりも長い期間、娘と一緒にいたことが、ジョニーの何かを目覚めさせることになるのだ。

ジョニーとクレオのシーンは全て良い。主にエルのキラキラした魅力により、父と娘のシーンは全て特別なものになっている。
ラスト間近、夏の2週間のキャンプに参加するクレオを愛車のフェラーリに乗せて送っていく道中、いつも笑っているクレオが声もなく助手席で泣き始める。「ママは帰ってくるのかな。パパはいつも忙しいし…」と涙まみれの顔を向ける娘に戸惑う父。娘に泣かれると切ない。この時のスティーヴン・ドーフの曰く言い難い表情がほろ苦でなかなかいい。
娘をチアアップするため、キャンプに行くのを少し先延ばしにし、そのまま車でラスベガスのカジノに行き、一緒に遊ぶ親子。翌日、ヘリを雇ってキャンプ地の近くまで戻り、娘をタクシーに乗せて送り出し、自分はヘリでベガスまで戻る。そこから愛車でハリウッドまで戻るのだろうが、これも金があるからなせる技。しかし、金だけがいくらあっても心が満たされるわけではないのだ。



一人になってシャトー・マーモントで過ごすうちに、失えないものが何なのかはっきりと気づくジョニー。
割と定石通りにホテルで孤独をかみしめるシーンがあれこれと続く。自分で茹でたパスタをまずそうに食べ(殆ど食べ残す)、バルコニーに出て一人、夜の街を眺める。元妻に電話し、自己卑下して一人すすり泣く。

そんな何日かを過ごしたのち、やがて彼はホテルをチェックアウトし、フェラーリを駆って郊外へ向かう。
自分の行くべきところへ。
燦々とした日当たりの、ヤシの木のそよぐハリウッドの道を、黒いフェラーリが爽快に走っていく。
市街地を出た車はやがて何もない荒野の一本道で止まる。それは娘をキャンプに送り出した、あの道である。
ジョニーはフェラーリにキーを挿したまま車を降り、何もない一本道を歩き出す…。



フェラーリと腕のギプスはジョニーを取り巻く虚飾の生活のメタファーでもあろうか。腕のギプスが外れる頃、ジョニーの心境にも変化が訪れ、どこに行くにも乗り回していた自慢の黒いフェラーリは、ラストで荒野の一本道に置き去りにしていく。

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人生に問題を抱えた俳優がホテルに滞在している、という設定や、(人妻にしろ自分の娘にしろ)若い娘と関わるという部分は初期の「ロスト・イン・トランスレーション」とも少し被るけれども、「ロスト〜」に顕著だった中弛み感や冗長な部分がかなり減って、いい具合にキュっとした作品になっていたと思う。監督としてソフィア・コッポラが腕を上げたんだなぁ、という感じがした。



また、作中の父と娘のコミュニケーションのナイスな空気感には、ソフィアが父のフランシス・コッポラをとても好きなんだな、という感じ…というか、彼女と父親との関係性がうかがわれる気もして、ワタシが他のどのソフィア・コッポラの作品よりも「Somewhere」が良いと感じることの背景には、自分がパパっ子であったことも、外せない要因としてあるのだろうな、と改めて思った。

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