「華麗なるギャツビー」 (THE GREAT GATSBY)

~金持ちの女は貧しい男とは結婚しないの~
1974年 米 ジャック・クレイトン監督



バズ・ラーマン監督が映画化権を得たという噂があるので、そのうちリメイクされるだろう“グレート・ギャツビー”。また?という気持ち半分と、映画化に際してこのたびは誰をギャツビーにキャスティングするんだろうという興味もちらっと湧いた。書店の文庫のコーナーに(オリジナルを書けなくなったのか最近は翻訳に精を出している)村上春樹の、彼のもっとも愛好する作家の、もっとも愛好する作品である「グレート・ギャツビー」の新訳(この訳本は未読)の文庫が平積みになっていたりして、ギャツビーねぇ…と久々に手元にある74年版の、あのR・レッドフォード主演の「華麗なるギャツビー」を観賞してみた。
これを最初に観たのは随分昔のことだが、劇場封切り時ではなくTVの洋画枠だったと思うけれど、なにせ子供だったのであまり面白い映画じゃないなぁ、と思った。
子供の目で見ても、ミア・ファーローのデイジーはエキセントリック過ぎて痩せぎすの容姿もあまり美しいとは思えず、デイジーに魅力を感じなかった事も「たいした事ないんじゃないかしらん」という気分に拍車をかけていたと思う。異様に気取り倒しているレッドフォードのギャツビーも滑稽に感じた。でも1920年代という時代にとても興味を持つようになったハイティーン以降、大人になってから再度観てみたら、原作にとても忠実に映画化している上に、時代考証をきっちりと行って、ローリング・トゥエンティの風物を非常にキメ細かく再現していることや、その甲斐もない、どこに真実があるのかわからない女に人生の全てを捧げるギャツビーの巨大なアイロニーを、視覚的により強力に観客に伝えるために、デイジーはミア・ファーローで正解だったのだという事など、子供の頃にはよく分からなかった事が分かるにつれて、この映画が少し好きになった。衣装や美術なども非常にゴージャスで時代色がよく出ており、1920年代、30年代の風俗や流行をとても愛好しているワタシには、そういう面でも捨てがたい作品だ。脚本はフランシス・フォード・コッポラが手がけている。この人も1920年代、30年代には格別のこだわりがある人のようにお見受けするので、時代色のきっちりと出たところは、この人が脚本に1枚噛んでいる部分も影響しているように思われる。アカデミー衣装デザイン賞を獲った衣装も一見の価値あり。パーティのシーンでミア・ファーローが被って登場するビーズのキャップはまさしく1920年代的なファッション。「コットンクラブ」でもダイアン・レインが似たようなのを被っている。実はひそかに、ワタシはこのキラキラとしたビーズのキャップを一度被ってみたいと思っているのだけど…。(一体どこに売ってるのか?そしてどこに被っていくのか?)




夏のニューヨーク郊外、ロング・アイランド。海峡を挟んで西と東に分かれた地形の東側の岬の館に住むデイジー。その館の桟橋の灯りを対岸の西側の岬の館からじっとみつめるギャツビー…。それにしても、このギャツビーの熱情は尋常じゃない。とにもかくにもデイジー一筋。彼女に釣り合う男になるためには、非合法な手段も辞さず、もてる能力のありたけを費やして巨万の富を手中にする。ギャツビーはロング・アイランド界隈では、いわゆる「謎の大富豪」として名を馳せ、自らは姿を現さずに夜毎自宅を開放して大パーティを開催する。その目的はただひとつ。賑やかな宴の灯りにつられてデイジーがやってくるのをひたすらに待つことなのだ。そんなバカな。なんて回りくどい方法。しかし、それがギャツビーのやりかたなのだ。大時代で馬鹿馬鹿しいまでにロマンチストなギャツビー。彼が愛したのは生身のデイジーそのものではなく、彼女に象徴される彼の理想の人生…。だが、幻を愛しても報われることはない。

 頭デッカチ

物語は、たまたまその夏、ギャツビーの隣人となったデイジーの従兄弟・ニックの語りで進むのだが、彼がかねて関心を持っていた謎の隣人ギャツビーから、ある日、パーティに招待を受けた事から二人の交流が始まる。
1920年代のパーティは、なんといってもチャールストン・ダンスにシャンパンである。女性たちのビーズの衣装が、チャールストンの振り付けで左右に激しく音をたてつつ揺れる。女性たちが履いているのは巻き上げストッキングにバックルのついた靴。時代考証もバッチリだ。
ニックを演じるサム・ウォーターストンは、この映画以外ではワタシは観た事がないのだけど、品のいいお坊ちゃん風の容姿で穏やかな笑顔を浮かべる彼は、アクの強い登場人物の中で無色透明な緩衝地帯の役割を果たし、物静かな語り部としては正解のキャスティングだと思う。


ニック役のサム・ウォーターストン

そして、常にひらひらのジョーゼットの衣装で縁の大きな夏の帽子を被って現れるデイジーを演じるのはミア・ファーロー。この人の一番の特徴は神経症的なところだろうけれど、今回はそういう危うい部分と、どんな事柄も表層をつるりと滑り落ちていってしまい、なんら内側に堆積しない、どんな事をしでかしても、自分は無傷でしれっと生き伸びるという軽薄で厚顔な部分とを同時に表現していて、う?ん、だからミア・ファーローなのか、と今更に納得した。(昔は、もっと美人が沢山いるのになんでこの人かしらん、と思っていた)1920年代風のメイクも顔に合っていると言えば合っている。何度観ても、やはり美人ではないなぁと思うものの、富豪の家に生まれつき、スポイルされ、自分を守ってくれる確かな金や地位と以外は結びつかない女にはハマっていると思う。口先だけで人をたぶらかし、ひらひら、ふわふわとひたすら楽しい事、甘ったるい事を求めて浮ついているだけの軽薄な金持ち女のデイジーだが、上昇志向の強い成上がりのギャツビーは、まさにそれゆえにデイジーを愛するのだ。彼女の居る場所は、彼の目指す場所であり、彼女は到達すべき人生の輝きの象徴なわけである。…あんな詰まらない女が。
そこにこそギャツビーの巨大なアイロニーがある。

デイジーの夫トムの愛人にカレン・ブラック。70年代に流行った女優だが、かなりのファニーフェイス。寄り目気味で口が巨大で、食い尽くされそうなバイタリティを感じる。インパクトの大きい顔だが野生的な色気もあり、愛人役にはピッタリだった。この映画、男性陣はオーソドックスにキャスティングしているのに対し、女性陣のキャスティングはかなりユニークなのも面白いところかもしれない。

 
うわっ!!

「華麗なるギャツビー」の中でもっとも好きなシーンは、デイジーと再会し、その豪邸に彼女を招く事に成功したギャツビーが「服はシーズンごとに英国から取り寄せるんだ」と言いながら自らの鏡張りのクロゼットに入り、色とりどりのシャツを次々に空中に放り投げるシーンだ。淡いばら色のシャツを抱き締めたデイジーが「こんな美しいシャツは観たことがないわ」と言い、シャツに頬擦りし、感極まって泣き出す。最初に観た時に記憶に残っていたわけではなかったのだが、村上春樹の「トニー滝谷」を読んだ時、滝谷の家に秘書でやってきた女性が、滝谷の妻が残した服や靴のぎっしりとつまったクロゼットで「どれでも好きなものを選んで着てくれていい」と言われ、その服を眺め、触っているうちに泣き出してしまう場面で、こんな場面は他にもどこかで観たことがあるわ、と記憶を辿っていって、「あ、ギャツビーだ」と思いだしたのだった。「グレート・ギャツビー」を愛好する村上春樹流のオマージュではないかと思っているのだけど、ギャツビーの、このクロゼットのシーンは原作にもあるし、映画でもいいシーンになっていると思う。

 なんて美しいシャツなの!

美術で特にいいのはギャツビーの豪邸の内装。タイトルバックでも全てに「JG」のイニシャルが入ったギャツビーの持ち物や室内の様子が紹介されるが、プールの休憩室の中にしつらえられた水盤には金魚が泳ぎ、その底には大理石でギリシャ文字の意匠。壁際の蓄音機はグランドピアノをかたどり、表面の細工は蒔絵か螺鈿の東洋趣味である。なんとも高価そうな蓄音機。1920年代当時でも高かっただろうし、アンティークになっても相当な値がつきそうな代物だ。また、宴が果て、人も楽隊も消えた明け方の庭園、芝生に転がったグラス、次々に庭の灯りが消え、噴水も終わり、邸内がゴージャスであればあるだけ、宴の後の落莫とした虚無に覆われる様子が、野望だけに生きる孤独なギャツビーその人の心象をも表してもいるようだ。

 宴のあとの寂寞

ギャツビーを演じるレッドフォードはこれでもか、というぐらいにキザ。キザキザ。いつでもどのシーンでもポーズってて、あまりの事にぷぷっと笑ってしまうぐらいに様子ぶっている。極めつけは淡いピンクのスリーピースを着て登場するシーンだろうと思うけれど、観ていて気恥ずかしくなるほどのキメっぷり、キザっぷり。しかし70年代のレッドフォードはまさに全盛期。当時の観客はぷぷ!などと笑わずに、ウットリと観ていたのだろうなぁ、と思うものの笑いは禁じえない。しかし、今やボロボロでボロ雑巾のようになったレッドフォードの顔の皮膚だが、この頃はまだ比較的滑らか。夏の日差しを浴びてほんのりとばら色の頬である。これは夏の話で、まだクーラーは無い時代のこととて、いかな大富豪でも夏の暑さはいかんともしがたいというわけで、俳優たちはみな顔にうっすらと汗を掻いて登場する。暑い暑いロングアイランドの夏の終わりとともに、ギャツビーの野望に衝き動かされた人生も終わる。去りゆく夏に青春の蹉跌。青いプールの水に浮きながら幸福の予感に一人酔うさなかの死。一代にして巨万の富を得たギャツビーだが、ついに支配階級にはなれず、結局は気まぐれな金持ちに振り回され、すりつぶされてしまうだけに終わる。自分のせいで二人も人が死んだというのに、デイジーは何の責めも負わず、ふわふわと金に守られて世知辛い世の中の表層を浮かんで行く。なにごともなかったように。

 キメキメ


ギャツビーのライズ&フォールは、そのまま原作者フィッツジェラルドの人生と印象が重なる気がする。20年代にデビューして時代の寵児としてもてはやされるが、同じくロスト・エイジを代表する作家であるヘミングウェイがその後もしぶとく生き残ったのに対し、フィッツジェラルドは次第に時代に取り残されてしまう。共にジャズ・エイジを謳歌し、ジョージア、アラバマ2州に並びなき美女と謳われた妻ゼルダは精神を病んで入院し、その療養費や生活費のために契約金につられて行ったハリウッドでは、しかし脚本家として才能を発揮することはできなかった。失意のうちに酒びたりとなり、心臓麻痺で44歳の生涯を終える。栄光の20年代とピークが去ったあとの落莫感。人生(青春)の光と翳。

最初にこの映画を観たころには、ギャツビーのアイロニーがあまり描かれていないのでは?と思っていたが、大人になってから観てみるとそれなりにちゃんと描かれていたな、と思う。虚しいソフィスティケーションだけが上っ面を流れていく東部と、質実な西部の対比、という部分はあまり出ていなかったが、人として最低な人間でも、地位と金とに守られていってしまう生まれついての金持ち階級に対して、語り部であるニックがハッキリと嫌悪を抱くようになるあたりは原作者フィッツジェラルドの影が見える。

この「グレート・ギャツビー」を、バズ・ラーマンが通算4度目の映画化に際してどのような視点で料理するのか、微妙に興味があったりなかったりというところだけれど、何はともあれ、まずはキャスティングですわね。

コメント

  • 2009/04/06 (Mon) 16:48

    ふーん、ギャツビーってそういうお話なんですか。フィッツジェラルドは「夜はやさしく」というのを半分まで読んでギブアップして、あとはまったく手が伸びませんでした。レッドフォードがかなり苦手で、「追憶」でのバーで初めてバーブラ・ストレイサンドと出会うシーンの目を閉じたひとりうっとりには逃げ出したくなりました。ほんとに最近は「ぼろ雑巾」のごとくになった顔が、メリル・ストリープ、トム・クルーズと共演した映画のジャケットでは妙につるりとしているので、おお、ついにお直しが入ったのか、と疑っているところです。その映画を見ていないのではっきりとは言えませんが。
    サム・ウォーターストン、ウディ・アレンの映画で何本か見ましたが、なんといっても「キリング・フィールド」です。テレビでは「Law and Order」に長いこと出ていました。いまも出ているのかしら。

  • 2009/04/06 (Mon) 22:41

    たむさん、そういう話なんですよギャツビーは。レッドフォードはこの前何かで観た時に猛烈にボロボロの肌になっていて、昔からアバタっぽくて美肌じゃない人なんですが、昨今は本当にヒドイことになってますね。乾燥肌で委細構わずカリフォルニアの太陽で焼きまくるとああなってしまうんでしょうかしらね。最近の作品のポスターでつるりとして見えるんだったら間違いなくお直しでしょうね。(笑)
    「キリング・フィールド」は未見なのでサム・ウォーターストンは今のところこの映画でしか観た事はありません。ウディ・アレン作品にも出てますのか?全く気付きませんでした。

  • 2013/06/17 (Mon) 23:35

    kikiさん、74年版についてもお書きだったのですね。 
    これはこれで見ごたえありそうですね。わたしのお気に入り、シャツ放り投げシーンはぜひとも見ねばなりますまい!
    デイジーという女性はkikiさん評を読むと、えらく軽薄な金持ち女ということらしく、M.ファーローはうまいこと演じているようですが、一方のデカプー版でのキャリー・デイジーはいかにもフワフワはしていたけど、軽薄な嫌な女という印象は受けませんでした。kikiさん評を読んではじめてデイジーってそんな女だったんだ、と分かった次第です(笑)。
    色々とハマりやすいので74年版も見たけりゃ原作も読んでみたいと思い始めて困っています(笑)。

  • 2013/06/18 (Tue) 00:04

    ミナリコさん
    デイジーは、キャリー・マリガンの方が、ある程度は実があるように描かれてましたわね。気持ちがない事はなかったのだけれども、今一歩の勇気がなかったというような、ね。でも、デイジーというのは基本的に苦労とか辛抱とか不安とか、そういうものに耐えられない女なんですわね。磐石の富と家名の上に人生が乗っかっていないと生きて行かれない。だから、後ろ暗くて、いつ何時どうなるか分らないギャッツビーを選ぶという事は、どう転んでもありえないわけでね。ギャッツビーの最期にしても当座は少し苦しむかもしれないけれども、そのうちには何事もなかったように、またヒラヒラと生きていくというような女だと思うんですわね。相変わらず亭主に浮気されつつも自分も時折浮気しながら(笑) 原作は昔の訳本もあるし、数年前に村上春樹が新訳を出しているから、どちらでもお好みの方を(笑) ちなみに、私は春樹版は読んでいません。

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